GP5000が「宗教」と呼ばれる理由は、性能でもブランドでもありません。
それは――
使っている人たちの“振る舞い”が、あまりにも宗教っぽいからです。
ここからは私自身が見てきたこと、体験したこと、そしてロードバイク界隈でよく目にする「あるある」をまとめていきます。
なお先に断っておきますが、本記事は信仰をすすめる記事でも、否定する記事でもありません。
むしろ「分かりすぎて笑ってしまう話」です。
たっちネタ要素を含む記事なので、気軽に読んでくださいね。
本記事は、「GP5000宗教記事」の後編です。
→前編はこちらから
目次録
GP5000宗教圏に伝わる定番エピソード・あるあるなどをまとめました。
これはもう、ロード界隈にまつわる“民俗学”と言ってもいいでしょう。



それでは、後編スタートです!
- 信仰の始まり
- 最初の儀式「洗礼」
- 魂の救済
- 異端の許容
- 改宗と回帰
- 議論破壊兵器
- 数値信仰
- 重量論争と回転体理論
- 嵌める儀式
- 派閥抗争
- 異教徒との関係
- 終末論
- 逆張り信者
- 誰も語らない闇
- 最大の罪
信仰の始まり
GP5000信仰の始まりは、だいたいこんな感じ。
「迷ったらGP5000でいいと思うよ」
誰かに強くすすめられるわけでもない。
ゴリ押しもない。
ただ、あまりにも自然にすすめられる。
熱弁などもありません。
そして装着後、数km走ったところで思うのです。
「……あれ?普通に良くない?」
この時点で、あなたはすでにGP5000教の入口に立っているのです。



善意100%のおすすめですからね。



そんな一言の積み重ねが信仰を加速していくのです。
最初の儀式「洗礼」
初めてGP5000を履いた人が、ほぼ例外なく言う言葉があります。
「転がり軽っ!」
「なんか速くなった気がする」
「今まで何やったんや…」
これ、気のせいじゃありません。
GP5000は、
- 転がり抵抗
- 路面追従性
- コーナーの安心感
このあたりの体感差がデカい。



そしてその体感差は、初心者ほど大きく感じられるのです。
結果どうなるか?
「いや、マジで違うから。一回履いてみ?」
洗礼を受けた信徒たちは、そう説いて回ることになるのです。



こうして布教が広まっていくのですね。
魂の救済
「レース前に変なタイヤ履くと不安だから、GP5000にしておこう」
こういう人はメチャメチャ多いです。
- 本番前に新しいタイヤを試すのは怖い
- でもGP5000なら「知ってる感覚」
- 周りみんな履いてるし
- 失敗しても言い訳できる
性能以上に“精神的バフ”がかかるのです。
GP5000の絶大なる安心感。
これが宗教扱いされる最大要因かもしれません。



何も不安に感じることなく、魂を預けられるのです。
異端の許容
この宗教が珍しいのは、異端にやさしいところです。
「別のタイヤ使ってます」
「ああ、全然いいと思いますよ」
GP5000信者は常に穏やか。
怒られない。
排除されない。
ただし最後に、必ずこう付け加えられる。
「まあ、GP5000も一回は使っといた方がいいですけどね」



しっかりと逃げ道は用意されているのね…
宗教なのに、異端を許容する。
これがGP5000宗教の不思議なところです。



どのタイヤにも熱狂的な信者はいます。
彼らは異教を許容しませんが、GP5000信者はメチャメチャ寛容。
改宗と回帰
「◯◯タイヤが良いって聞いて履いたんだけどさ…」
「なんか違って、結局GP5000に戻した」
これは本当に多いです。
- 他社の高級モデルに改宗
- 最初は「悪くない」
- でも何かが違う
- 数カ月後、GP5000に帰還
この現象を「巡礼の旅」と呼ぶことも多いです。
一度GP5000が基準になると、他のタイヤが「悪くないけど……」になる。
これが宗教の回帰現象です。



決して堕落などではありません。
性能が良すぎるがゆえの半笑い表現として、
- 「必ず一回は離れるくせに、また帰ってくる」
- 「出家と還俗を繰り返す」
- 「結局、信仰が深まっただけだった」
などと揶揄されることも多いです。
議論破壊兵器
A「最近◯◯タイヤどう?」
B「転がりはいいけど耐久がね…」
C「グリップは良いんだけど雨が…」
D「……GP5000でよくない?」
――終了。
性能の暴力ですべてを無に帰す議論破壊兵器。
これがGP5000が宗教扱いされる大きな要因です。
「GP5000出すのは反則」
「それ言ったら話終わる」
「最適解出すな」
これもタイヤ談義ではあるあるのやり取りです。
- 「考えるのやめて脳死でGP5000」
- 「もう思考停止GP5000」
という辛口表現も使われることがあります。



言われた側も、「まあ否定できないんだけど…」となる絶妙なラインです。
数値信仰
GP5000教には、「数値信仰」と呼ばれる独自の教義を信仰している一派も存在します。
- Bicycle Rolling Resistance の数値
- 実測データ
- パワーメーター
「転がり抵抗至上主義」に代表される彼らの拠り所は、これらの数値。
それを実走で感じ取れるかどうかは二の次です。



彼らにとっては、数字がそこにあること自体が大切なのです。
「いや、数値出てるから」
この言葉で、感覚論を物理で殴る。
そんな彼らに対して言われがちなのが、
- 「理屈っぽい」
- 「数字の宗教」
- 「グラフ崇拝」
でも実際にGP5000は本当に数値が強いので、今後も数値信仰勢力が衰えゆくことはないでしょう。



GP5000信者の中では、扱いに気をつかう一派ではあります。
重量論争と回転体理論
A「GP5000ってちょっと重くない?」
B「いや、転がり抵抗考えたら誤差」
C「回転体だから…」
D「でも実測だと…」
——永遠に終わらぬ重量論争。
- 軽量至上派:塊の軽さを求める
- GP5000派:速度という救済を求める
「数gの重さを巡る信仰」には変わらないが、この両者の教義には大きな隔たりがあるため、和解することは困難である。
「回転体は軽いほうがいい」
これはもう、聖書の一節レベルで引用されるフレーズ。
タイヤ重量の話になると、必ず誰かが唱えるので厄介です。
決して反論は許されません。
なぜなら、(彼らいわく)理論だから。
嵌める儀式
GP5000を語る上で避けて通れないのが、嵌めにくさ。
- 鬼のように硬い
- 素手では無理
- 心が折れる
- レバー複数本必須
だが嵌め終わった瞬間、なぜか誇らしい。
この儀式を乗り越えた者だけが信者になれるというGP5000教ならではの風習。
これこそが「神が与えたもうた試練」。
最近のモデルでは改善されつつありますが、このイメージはまだ生きています。



まさに信仰心が試される時です。
派閥抗争
- GP5000 TL派
- GP5000 S TR派
- クリンチャー派
同じ宗教なのに、このような内部抗争が存在しています。
同じ宗教内で争ってるのが面白い。
- 「TLは修行僧」
- 「S TRは現代宗派」
- 「クリンチャーは原理主義者」
異教徒との関係
- ヴィットリア派:「乗り味!しなやかさ!」
- シュワルベ派:「全天候!安定!」
このように他教を信仰している者もいます。
- 軽さ至上主義
- 耐久性至上主義
- 転がり抵抗至上主義
- 価格至上主義
教義は宗派によってさまざまですが、GP5000信者は決して彼らと争いはしません。
「ああ、分かります」
「でもGP5000もいいですよ」
決して侵略することはなく、あくまで共存路線を貫きます。
そして異教徒たちも、一度はGP5000を履いたことがある元・信者たちなのです。
終末論
「GP5000、終わるらしいよ」
新製品が出るたびに囁かれるが、毎回外れます。
- 「新作◯◯がGP5000超えた」
- 「次世代は別物」
- 「もうGP5000は時代遅れ」
→ 数ヶ月後
「で、結局GP5000でいいよね」



むしろ信仰は強まっていくのです。
- 終末論
- 新救世主
- 検証
- 現世復帰



これが何年も繰り返されています。
逆張り信者
「俺はGP5000を使わない!」
そんな誓いを立てる者もいます。
GP5000をあえて外すことで、「通」アピールを目論む異端の徒です。
履いてないと言いながら、なぜか一番詳しいし、一番語る。
これもまた、立派な信者のカタチなのです。
彼らにおいては、“履いたことがある”が前提条件。
未履修だと教義の正統性が弱くなるため、GP5000を擦り倒して知り尽くしているのが特徴です。
そして、「好みの問題だけどね」と圧をかけてくるのです。
誰も語らない闇
- 欲しいサイズがない
- 値段が静かに上がる
- すぐに売り切れる
だが誰も深く詮索しない。



「信仰」とは、そういうものか…
あえて誰も触れようとしない闇を抱えているのは、他のタイヤ信者と変わりありません。
最大の罪
「悩む楽しみを奪った」
- タイヤ選びが楽しかった
- 迷う時間が趣味だった
- インプレを読むのが好きだった
それなのに、GP5000を履いた瞬間、
「あ、これでいいや」(――終了――)
趣味性を殺す完成度。
だからこそ、信仰の対象となったのです。



洗礼→思考停止→信仰→崇拝。
ラインが完成されている…
GP5000宗教:まとめ
GP5000って、
- 最速じゃないかもしれない
- 最軽量でもない
- 最しなやかさでもない
でも、
「後悔しない確率が異常に高い」
この一点で、宗教になったタイヤです。
- 「帰れる場所」
- 「比較の基準」
- 「思考停止していい選択肢」
盲信はしない。
否定もしない。
理解した上で、使う。
GP5000とは、そんな付き合い方をするのがいいのかなと思っています。



GP5000教は信仰というより、「考えなくて済む安心感」への依存なのかもね。
本記事は、「GP5000宗教記事」の後編です。
→前編はこちらから



皆さんのようにネタとして楽しめる人がいるから、この文化が面白く続いていけます。自転車界隈のオモシロ話、これからも紹介していくので、楽しみにしてください!






